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知らずに越えた大分水嶺

--- 22.鳥居峠(中山道) ---
(長野県)
2011年秋

初稿作成:2023.08
初稿UP:2024.03.20


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00.このとき越えた大分水嶺
地図00−22.鳥居峠(長野県)

 長野県に”鳥居峠”が2つある。1つは、上信越国立公園内、長野・群馬県境にあり国道144号が越えている。それに対してこちらは、県南部にあって、旧中山道”藪原宿”と”奈良井宿”の間にある。
 ここで取り上げる大分水嶺のルートとしては、権兵衛峠から鳥居峠までである。私自身は、前項で触れたように権兵衛峠を越えることはなかった。越えたのはというより”抜けた”のはというべきだが、実際に走ったのは「権兵衛トンネル」である(左の地図では「権兵衛隧道」とした)。
 この間は、”奈良井川峡谷”(信濃川水系・日本海流域)が、細く長く木曽駒ケ岳山中に入りこみ、標高2600m辺りまで上り詰めて、そこで大きくターンして北へ返り出す。その間の大分水嶺を地図で見るとツララが下がったような形をしているが、そこでの間隔は、奈良井宿南方のいちばん狭いところで2.5Km弱である。こんな狭い間隔で大分水嶺が並行に走る例は、日本中でここ以外に例はない。



地図22−1.分水嶺の流れ 権兵衛峠から鳥居峠まで

 今回は権兵衛峠から鳥居峠までである。どちらも長野県内にあり両者間の直線距離10.4Kmだが、その間の大分水嶺をたどれば26.3Kmという不思議なところである。左の地図で見るように、東の伊那谷・西の木曽谷に挟まれた中央アルプス山系(太平洋水系)に、北側から奈良井川渓谷(日本海水系)が割り込んできていることによる。(奈良井川→犀川→千曲川→信濃川→日本海)。木曽谷の続きだとばかり思いこんでいた奈良井渓谷の地名が”が塩尻市”と聞いて驚く。


 右のカシミール図は、左の地図の奈良井川源流の入り口、東西の幅がまだ広く「日本海流域」とある”日”の字の上空あたりを撮影ポイントとして、奈良井川源流を南に向いて見下ろしたところである。雑な言い方だが、左の奈良井川源流部の地図を、ぐるっと半回転、南北を逆にして、手前から見下ろしたところだと考えてもらえばいい。東に権兵衛峠、西に老神峠・鳥居峠があるが、南北方向が圧縮されているため前後関係がわかりにくい。


 そこで、上の地図を90度左側へ倒し(西側を上として)、東側の天竜川流域の上空から俯瞰したのが右の立体図である。
 堀公俊著、『日本の分水嶺』(ヤマケイ文庫)には次のようにある。
 (北の経ヶ岳の方から続いてきた大分水嶺が・・・)――権兵衛峠を越えると大分水界はさらに高度を上げ、伊那から中央アルプスの主峰木曽駒ケ岳へのびる西駒登山道と合流する。ー(略)ー木曽駒ケ岳の七合目付近にある胸突き八丁の頭あたりまで順調に登っていく大分水界。ところが、山頂を目前にしてなぜか登頂を断念し、いままでとは全く反対の北に向かって中央アルプスを下っていく。最高到達点あたりの砂礫の広い尾根は、その名も「分水嶺」と呼ばれ、標識が立てられている。――
 大分水嶺がUターンするところ、そういう劇的なところだから、何か名がある山があるのじゃないかと地図を探してみたが、それらしい山は見当たらない。それはそうだろう、人間の意思で決めているわけではない。風景の良し悪しとは無関係、大自然の状況で決まっていく。カシミール図のP点。妙なことろだと思っていたが、堀さんの文章によると、「砂礫の広い尾根」だという。なるほどなるほど解るような気がしてきた。


22-a. 木曽駒の近くまで・・・ズボラな登山

 1980年秋、御トシ46歳。若い同僚に誘われて木曽駒へ登った。そう、有名なケーブルで・・・。
 右がそのときのルートである。ケーブルの千畳敷駅から、千畳敷カールを横断して稜線のA点まで登る。そこから宝剣岳往復。岩がごつごつしていて結構楽しいところだった。A点へ戻って稜線を北へ。宝剣山荘・天狗荘を越えてちょっとしたピークについた。地図の中岳とあるところである。私はここを木曽駒の頂上だと思いこんだ。そしてそれを越えたところにある頂上小屋で一泊した。あくる日は風が強かったが、前日の中岳山頂で日の出を見た。
 とにかくこのとき頂上山荘までは行った。しかしそこから奥へは入っていない。木曽駒へ登ったつもりだったが、それは中岳だった。アホみたいな話だが、あともうちょっと行けば木曽駒だというところまで行って引き返してきたことになる。
 大分水嶺は北から来て北へ引き返していった。私は南から登って南へ引き返した。似ても似つかないアホみたいな話ではあるが、このときのことを思い出すにつけ、上のP点についての堀さんの文章「最高到達点あたりの砂礫の広い尾根は・・・」が生き生きと感じられるのである。
 それはいいのだが、このようなすべてがあなた任せの登山、自分がどこまで行ったのかわからない、これが一番怖い。いまになって反省しきり。

木曽駒ケ岳登山?
1.千畳敷カール 2.宝剣岳へ 3.宝剣岳 4.中岳山頂と御嶽山 5.ご来光

 1.千畳敷カールから宝剣岳を見上げる。
 2、稜線A点から宝剣岳へ。
 3.A点へ引き返し、中岳近くから宝剣岳を振り返る。
 4.中岳山頂付近から御嶽山を望む。
 5.中岳山頂からのご来光。



22-2.権兵衛トンネル→姥神トンネルまで
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 左は権兵衛トンネル付近の地図である。上の地図22-01で赤い枠で囲んだ部分をアップしたことになる。2本の大分水嶺は、いま辿っている順序でいえば、東側、権兵衛峠南のO点から木曽駒ケ岳の中腹P点に至り、そこでターンして西側のQ点へ戻ってくる。
 東側、天竜川・飯田線沿いの谷が伊那谷、西側の木曽川・中央線沿いの谷が木曾谷である。権兵衛峠は伊那谷と木曽谷を結ぶルートとされている。ところが走ってみると、たとえば今の場合は伊那谷から木曽谷へ向いて走ったわけだが、一発で木曾谷へ出たわけではない。権兵衛トンネル(長さ4470m・標高1162m)を抜けると次は番所トンネル(長さ828m・標高1155m)、羽淵トンネル(長さ200m・標高1105m)をぬけてさらに姥神トンネル(うばがみT・長さ1826m・標高1076m)を抜けたところでやっと木曽谷へ出ることになる。走る側からすれば、この4つのトンネルを総称して権兵衛トンネルと受け取り、伊那谷から木曽谷へ抜けたと考えているわけである。



22-b.トンネルがなかったころ
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  トンネルがなかったころの地図である。カシミールで使っている地図だが、現在のものからするとちょっと古い。カシミールのように山の形に重点を置く使い方をするとき、トンネルがあろうがなかろうが何ら関係がない。だから古いまま使っているのだが、”権兵衛トンネル”は影も形もない。いまの感覚からすればかえって面白い。権兵衛街道が伊那谷からのびてきて、峠を越えて奈良井川の源流に下る。伊那谷(太平洋側)から大分水嶺を越えて奈良井川流域(日本海側)へ出る。そこから羽淵まで源流に沿って下り、そこからそのまま奈良井宿へ向かう道(日本海側)と、姥神峠を越える道(太平洋側へ)とに分かれる。トンネルもこの形を踏襲していることは言うまでもない。昔の道がむやみやたらにつけられていたわけではない。全体の地形を見通した上でのルート選択であったことが分かる。


22-c.姥神峠
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 上で見たように、”権兵衛街道”は かつて伊那から木曽への 米の輸送路とされ 二つの峠を越えなければならなかった。権兵衛峠(1522m)ともう一つは 姥神峠(うばがみ峠・1277m)である。現在は共にその直下をトンネルが貫いて 伊那−木曽間を車で わずか40分で結んでいるが、江戸時代初期までは 急峻で狭い峠道であった為 牛馬が通れず 人の背による物資輸送に限られていたという。
 この内、木曽の羽淵集落と同神谷集落を結ぶ峠が姥神峠で、羽淵側からは「神谷峠」とも呼ばれ、神谷側からは「羽淵峠」とも呼ばれているという。なお、神谷から藪原へ抜ける峠も神谷峠と呼ばれている。

 郷土出版社刊・『信州百峠』(1995刊)に次のようにある。
 ――姥神峠(うばがみ峠・1277m)は日義村神谷(かみや)から楢川村羽淵(はぶち)へ越える峠である。羽淵からは権兵衛峠をこえて伊那に通じる。江戸時代から明治44年に中央本線が全通するまで、伊那と木曽を結ぶ重要な街道であった。伊那からは、木曽にかり出される助郷の通路であり、また駄馬によって米や塩、干魚などが運び込まれた道でもある。木曽からは、白木細工・漆器・木櫛・桶木などが運ばれたが、この運搬には馬籠峠や境峠と同じように牛によって行われ、それにはもっぱら神谷の牛方衆が当たっていた。「組牛」と称して、一人の牛方が五頭の牛を引いたものである。神谷の古老が「牛につけた松明の明かりがここからよく見えた」と語ってくれたことがあった。
 頂上には御嶽信仰の霊神碑などの石碑や神像がたくさんたっている。かつて、伊那からの御嶽信者がここで御嶽山を遙拝し、神谷に下り、木曽福島を経て御嶽登拝に向かったのである。もちろん御嶽の展望もよい。傍らに権兵衛街道改修に功績のあった、古畑権兵衛の顕彰碑も建っている。
 神谷から登っても羽淵から登っても、頂上まではおよそ1時間である。伊那から木曽を経由して、岐阜県高山市を結ぶこの道は、国道361号となっているが、姥神峠は昔のままの道であり、権兵衛峠も冬期は通行止め近年、権兵衛・姥神両峠にトンネルを開けて伊那と木曽を結ぶ計画が具体的に進められている。(澤頭修治)――

 ◆この文章は1995年刊の『信州百峠』に収録されたもの。”権兵衛トンネル”が計画段階での文章である。現在(2023年)のWeb記事では、峠の上り下りで、”廃道に近い部分もある”と表現されている箇所もある。また。住所表記が大きく変わっている。現在は”日義村神谷”⇒木曽郡木曽町日義。”楢川村羽淵”⇒塩尻市奈良井と変っている。



地図22−3.鳥居峠

 さて、鳥居峠である。
 郷土出版社刊・『信州百峠』(1995・8刊)に次のようにある。
 ――鳥居峠は木曽川と、信濃川の上流である奈良井川との分水嶺である。今日的に言えば、同じ木曽郡の楢川村奈良井と木祖村藪原との境をなしている。『広辞苑』には「長野西部の木曽谷と松本盆地を結ぶ峠。海抜1197m。、旧中山道屈指の難所」とある。――略――
 峠の呼称について、古くは県坂(あがたさか)、中世には”ならい坂”または”藪原峠”と呼ばれていたが、『西筑摩郡誌』に「明応中木曽義元、小笠原氏と闘うとき、この頂上より御嶽神社を拝し戦勝を祈りしが、霊夢によりて勝つことを得たり。喜びて華表を建つ。世人これより鳥居峠と呼ぶ」とある。いずれにしても鳥居峠が通交の要所として人々が盛んに行き交うようになったのは江戸時代になってからである。――


 秋田書店刊 『考証中山道六十九次』戸羽山瀚著。(1975(昭和50)年10月初版発行)。紹介されている69の宿場町の地名がすべて表示されている。それによると
     ”奈良井”→長野県木曽郡楢川村奈良井
     ”藪原” →長野県木曽郡木祖村藪原
 となっている。上の郷土出版社刊・『信州百峠』(1995刊)にも同じ表記がある。
 ところが、今回この大分水嶺遊びを初めて、奈良井峡谷一帯が、塩尻市に編入されていることを知った。調べてみると2005年4月1日付けだったという。なるほどとは思ったが驚きであったことも事実。さすがというべきか、『広辞苑』には、鳥居峠のことを「長野西部の木曽谷と松本盆地を結ぶ峠・・・・」とある。



22-d W.WESTON(1861〜1940)『日本アルプスの登山と探検』(あかね書房『日本山岳名著全集』)

 時代は逆行するが、上述書の第3章より。
 ―鳥居峠という名前は、日本を旅する人には見慣れた大きな鳥居(聖なる門)が頂上にあるところからつけられた名前である。鳥居は神社仏閣のような神聖な場所への門戸という観念と必ず結びついている。ここに鳥居があるのは、20マイルほど離れてはいるが、ここから聖山御嶽の麓に道が通じているからである。その御嶽の鋸歯状の稜線は、紫の肌に雪の縞模様をつけ、澄んだ青空に険しい姿を現してきた。鳥居にたどり着いてみると、ちょうどその尾根が犀川と木曽川の分水嶺になっていることがわかった。この2つの川は、利根川とともに日本三大河と称せられている。犀川はここから北東に流れ信濃川という名前に変わって、新潟近くで日本海にはいるが、その間日本アルプスの東側をほとんど全域にわたって潤している。峠の西側にはほとんどこの足の下から長大な木曽川の水源の広い谷がひらけている。この木曽川は、同名の山岳地帯から流れ出ると、たくさんの河口をもつ三角州と、広い、肥沃な尾張平野を作り出している。―  (訳)山崎安治・青木枝朗



22-e トンネルの向こうは晴れだった。

 1972(昭和47)年10月の連休に午前中快晴の”西穂高”へ登って、その晩は白骨温泉で宴会。寝ている間に雨になり翌日も降り続く。中央西線奈良井まで降っていた雨がトンネルを抜けた向こうは晴れていたというアホみたいな話である。

トンネルの向こうは晴れていた。
1.松本電鉄島々ホーム 2.島々駅ホーム 3.中央線藪原駅ホーム 4.同左

 左2枚は、松本電鉄島々だったか、新島々だったか。とにかく雨が降っていた。
 1・2.いちばん左は説明が必要だろう。画面にどーんとある黒板の孫みたいなボード、実はこれ小型無蓋貨車のエンドの部分である。それをホーム側に入線させて側版をバタンとホーム側に開いて、どうぞご自由にお入りください。それで狭いホームがちょっとでも広く使えるという話。
 松本13時13分の名古屋行き。
 小降りになったとはいえ、奈良井までは雨。ところが鳥居トンネルを抜けたトタン、驚くような晴天になる。こういう変化が見られるから、旅は面白い。
 3・4.薮原駅(鳥居トンネルを抜けて初めての駅)で。名所案内に「薮原駅海抜492m」とある。自分の駅を名所案内に載せるヤツがあるか?。それもトップに。この写真、拡大して見てもらうと、下から2つ目に「境峠」とある。山からの帰り最後の白樺が見えるところだった。懐かしい。実はこの境峠は”大分水嶺”を越えている。次項の主役である。
 それともう1つ上の鳥居峠。このとき天気を分けた峠だが、鉄道も国道もトンネルで抜ける。その上を旧中山道が峠で越える。これが鳥居峠・分水嶺である。一度行ってみたいと思いつつ、いまだに行けていない。心残りである。
 *そしていまふと思った。このときは鳥居トンネルを抜けて木曽谷へ抜けた。天気は小雨から晴れに変わった。同じ奈良井川流域から権兵衛トンネルを抜けて伊那谷へ出ていたら、この天気はどう変ったか。こちらと同じように「晴れ」と考えていいのだろうか。単純にはいかないような気がする。


22-f.鳥居峠を走る

 ”峠の向こうは晴れていた”というその”鳥居峠”、そこを走ったという話である。マラソンに出たのではない。朝、早発ち深夜帰宅を覚悟すれば日帰りで行けなくはないだろうが、常識的には1泊2日になりそう。なんだかだと気にはしつつ日が経つばかり。何で読んだのかは忘れたが、クルマで越える道があるという。藪原の方から国道19号新鳥居トンネル入り口の手前を左に折れたところ(地図下のほう「林道入口」としたところ)が登り口だと。情報はそれだけ。どんな道でどんな注意が必要かなど細かい情報は一切なし。ホンマに行けるのかいなと思ったが、こんなところでウソを書いても仕方なかろうと善意に解釈し、とにかく行ってみよう。2011年10月のことである。御トシ77歳。上述の”木曽駒近くまで登山”(1980)年から32年。この鳥居峠が”大分水嶺越え”であることはまだ知らない。

鳥居峠
1.林道へ入る 2.旧中山道と交差 3.熊除けの鐘 4.中部北陸自然歩道
     
5.木蔭の道 6.どっちへ行くの? 7.奈良井宿 8.奈良井宿

 1.いわれるとうりに林道へ入って少し行ったところ。贅沢をいえばきりはないが、まあこの道なら行けるだろう。然し前から対向車が来たらどうする。来たら来たときの話やけど来ないことを祈るばかり。
 2.「奈良井宿へ」の標識。道は間違っていなかったらしい。ほっとする。写真を撮ったりしていたら、右の方から中年の女性のグループがやってきた。ざっと20人ほどだったろうか。その全員からジローっと睨まれた。それはそうだろう。自分たちがシンドイ思いをして、一歩一歩登ってきたところを、厚かましくクルマで来たやつがいる。何というヤツや。軽蔑から怒りのマナコまで、・・・いやいや、場違いなことをしました。ひたすら皆さんが通り過ぎるのを待つ。
 場所はよくわからないが、多分鳥居峠峠の記号があるところ、林道と峠山の方から来る道が交わるところではなかったか。彼女らは、その十字路を過ぎて右の方の中山道を下っていたのだろう。こちらもこの人たちの静かな山行を邪魔しないように気を使ったことは言うまでもない。
 3.4.5.6.”熊除けの鐘”があったり、”中部北陸自然歩道”と耳慣れない案内(私がいつも見ているのは”東海自然歩道”。この案内は、現場では何の違和感もなかったはずだが、いまこうして見るとどっちへ行けびいのかわからない。山の中の1本道でこそのものだろう。女性チームを見送ってからが長かった。これには参った、ええかげんにしてくれと嫌になったころ、ひょいと奈良井の宿が目の前に現れた。いまこうして地図でそのルートを見るに、道の屈曲は仕方がないものとあきらめて、勾配をできるだけ小さくなるよう等高線を丹念にトレースしているのが分かる。

 木耳社刊 中西慶爾著『巡歴中山道』(1976(昭和51)年4月初版発行)に、次のような文章に出会った。
   ――鳥居峠への路
 奈良井の町はずれからいきなり山道にかかると・・・いったい鳥居峠の中腹は穴だらけで・・・(とトンネルの多さを述べた後)・・・本当の蒼空の下でこの峠を越える道は二本ある。一は中山道そのもので、一時は部分的に通行不可能なほど荒廃したが、昭和46(1971)年自然歩道として整備された。もう1つは旧国道である。長野県が明治15(1882)年「七道開鑿事業」の第6として着手し、同23(1890)年完成。同26(1893)年国道7号別路線に編入されたもの、中山道の直線的なものに比べてはるかに曲折が多い。馬車の通れる道は当時珍しいほうで、さっき上の路を左へ走って行ったのが、今度は左の木陰からトテトーと現れる。こうした風景が無性に山人を喜ばせた。しかしいまは田舎道である。
 実用的からいえば、ことはトンネル道だけで達しられる。ここがありがたいところで、私は口笛を吹きながら、旧道を悠々と山坂を上り下りする。車は通らないし、行人にもめったに遭わない。 ――

 この旧国道の話が、上の写真2の「旧国道(車道)」なのだろう。”中山道の直線的なものに比べてはるかに曲折が多い。”とあるのも何となく分かるような気がする。いや、とにかく長かった。あの道は最初”林道”だと思っていたのだが、上の文章でいう”1890年に完成した国道”だったのだろう。


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